寝て
18:50に起きた
スッキリとした目覚めだった
なんだか、長い夢も見た
気がする
その後、凄まじい喪失感と劣等感を抱きながらおもむろにTVの電源をいれた
みのもんたがズバっとしゃべってた
まだ朝だった
今日の出来事です
2013/04/28
MXR ZW44
購入しました。
いつも試奏の機材や環境が違い過ぎるので、YOUTUBEでアンプや、ギター、ピックアップが比較的自分のものに近いテスト動画を見たり、実際にZW44を使用してレコーディングされた音源を聞いて決めてました。
最終的にはIbanezのTS9と悩んでたので、どちらかお手頃価格のものに出会えた方を買うことにしてました。
結果は予想以上な満足感です。
低音弦では金属的なアタック、中〜高音弦は粘り気のあるウェットな音です。
高密度系な歪みのブギーアンプと組み合わせると、よりそれらのキャラが引き立っていると感じます。
端的に
要は
ペトさんの音に近いということです(笑)
いやぁ
良いです!
PODとかもう無理です(;゜д゜)
いつも試奏の機材や環境が違い過ぎるので、YOUTUBEでアンプや、ギター、ピックアップが比較的自分のものに近いテスト動画を見たり、実際にZW44を使用してレコーディングされた音源を聞いて決めてました。
最終的にはIbanezのTS9と悩んでたので、どちらかお手頃価格のものに出会えた方を買うことにしてました。
結果は予想以上な満足感です。
低音弦では金属的なアタック、中〜高音弦は粘り気のあるウェットな音です。
高密度系な歪みのブギーアンプと組み合わせると、よりそれらのキャラが引き立っていると感じます。
端的に
要は
ペトさんの音に近いということです(笑)
いやぁ
良いです!
PODとかもう無理です(;゜д゜)
2013/04/24
2013/04/20
2013/04/13
ハレ・ケ・ケガレ?
内田樹(うちだたつる)先生と釈撤宗(しゃくてっしゅう)先生の
神戸女学院大学での講義を受けてきました!
*というのは嘘で、その対談講義を書籍化されたものを読みました(笑)。
その中で特に面白かった所を要約して書いてみます。
(もちろん全編通して面白いです)
「ハレ・ケ・ケガレ」の三態という、主に民俗学や文化論で使われる概念が
あるそうです。
「ケ」とは
漢字では「褻」、意味としては日常のこと。
古語では普段着を褻着(けぎ)、日常食を褻稲(けしね)などと呼んでいました。
日常=ニュートラルな状態で黒でも白でもない様態です。
「ハレ」とは
「晴れ着」「晴れ舞台」或いはエネルギーが活性化した「張れ」の状態でもある。
例えば「祭り」は代表的なハレの日で、エネルギーが活性化し発散する非日常
の日であり、日頃まもっているルールや規範を少々破っても許されるものです。
日本各地にある「ケンカ祭」や「ハダカ祭」等、そういう祭りでエネルギーを発散
させたら、また「ケ」日常に戻ります。
「ケガレ」とは
「穢れ」。諸説あるが、「気枯れ」(気が枯れる)が元々の意味と言われている。
エネルギーが枯渇している状態です。或いは「毛枯れ」「毛離れ」
(この場合、二毛作等でも言われるように「毛」とは農作物のこと)。
代表的な「ケガレ」には黒いケガレと赤いケガレがあり、黒は「死」に関する
ケガレ、赤は「血」に関するケガレです。この部分に関わった人は「穢れ」状態
がしばらく続くこととなり、一定期間は自粛生活を送る。
でも、また「ケ」に戻ります。
「ハレ」、「ケガレ」共に「ケ」の日常に対して非日常を表し、「ハレ」は聖の非日常。
「ケガレ」は負の非日常を表しています。
こうやって常にニュートラル状態に還るのが、日本の宗教文化のベクトル
となっており、すべてが一時的な状態なのだといえます。
昔の人にくらべ、都市生活は毎日ハレの状態みたいなもので、
還るべき日常が曖昧になっています。その曖昧な状態に一線を引くために
宗教儀礼が必要で、都市生活において占いや風水のニーズが高まるのは
生の営みに線引きするためなのかもしれません。或いは選択肢が多すぎて
自由であるが故の苦しみがうまれ、自分自身になんらかの縛りを
必要としているのかもしれない。
ハレの常態化に関しては社会学では「カーニヴァル化」と言われ、現代の特に
都市の若者の熱狂のありかたを説明するのにこの言葉が使われます。
三浦展(みうらあつし)さんの著書「下流社会」では、現代の階層下部を形成する
団塊ジュニアの特徴として、下流化志向があり、その特徴の一つとして
「カーニヴァル化」が挙げられています。
彼らの多くの日常生活はおおむね退屈で、特に生産性もなく、
単純で低賃金の労働に就き、高いスキルや知識を求められない、
個性的でも創造的でもない仕事に就いている。そういう若者達は日々の
生活の退屈さを、定期的にカーニヴァル的なもの、祝祭的な儀式、
たとえばサッカーのワールドカップ等の観戦で解消しているという(三浦展説)。
彼らが好きなものとして三浦さんは「5P」を挙げています。
パソコン、ペインジャー(携帯電話)、プレステ、ペットボトル、ポテチ。
つまりパソコンの前に座ってネットやゲームをしながらペットボトル飲料を
飲み、ポテチを食べている人・・・というのが、現代の下流の人たち
だということだそうです。
ネットの為の初期投資がどんどん安くなっている現在、ネットで遊んでいるのが
一番お金がかからない。それが、「引きこもり」状態をより容易にしている。
この若いネットピープルたちが好む娯楽は、ロックコンサート鑑賞と
スポーツ観戦なのだそうです。年収が下がるほど、スポーツ観戦とロックフェスに
惹きつけられる。
(イギリスでもサッカーを支持し支えるのは中流階級以下の人たちで、
上流階級の人は主にクリケットや競馬(日本の競馬イメージとは違います)
です)*自分調べ(笑)
しかし、こういうものは広告代理店が仕切っているイベントで、
そういう管理化された擬似イベントに何十万人という人たちが集められて、
代理店とテレビ局に仕切られた「祝祭」によって「ガス抜き」をしてもらい、
また一人の密室に戻っていくという、あまり心温まる風景ではありませんよね?
管理された擬似祝祭的イベントに若者が集まるということは。
「ネット右翼」というものもこの社会集団を母体としていて、
PCの前で排外主義的で暴力的な言辞を吐き散らしている若者のことで、
政治意識に関しても三浦さん調べではいわゆる「上流」における自民党の
支持率は8.3%で、民主党が16%、支持政党なしが75%(2005年後期)。
ところが「下流」層では自民党支持者が圧倒的に多い。よく見るテレビ局は
フジテレビ、フジと自民党が好きでネットから情報を得て、時々
サッカー観戦等でフェイスペインティングをして日章旗を振っている。
「ハレ」が常態化すると刺激の閾値がどんどん上がり、
以前は5万人で盛り上がっていたコンサートが慣れるうちに10万人20万人
となっていく。そんな風に刺激の閾値を上げていく以外にこの手の
擬似イベント的祝祭は「ハレ」としての人類学的機能を果たし得ないわけです。
だから最終的には「戦争だ!」というレベルにいくしかなくなる。
(2013年現在まったくもってそういう流れになってしまっています)
*自分認識です。
憲法改正法案を強く推しているのは70、80歳のグループと非常に若い
議員です。若い議員達は彼らを押し上げていた年の有権者、特に若い
世代の傾向をかなり正直に映し出していると思います。政治家までもが、
社会全体が興奮するようなイベントをしかけなければならない。
「ハレの常態化」が政治的に危険な方向に向かって行くことに懸念している。
という訳で、「名前は呪い?」「靖国問題で考える政治と宗教」、
「宗教とタブー」等非常に面白い一冊です。お勧めです。
まぁ内田先生の本は大抵面白いのですが(笑)
2005年での講義ということもあり、たぶんに現在を先見している
視野と考察に富んでいて色々考えさせられて楽しめます!
では!
神戸女学院大学での講義を受けてきました!
*というのは嘘で、その対談講義を書籍化されたものを読みました(笑)。
その中で特に面白かった所を要約して書いてみます。
(もちろん全編通して面白いです)
「ハレ・ケ・ケガレ」の三態という、主に民俗学や文化論で使われる概念が
あるそうです。
「ケ」とは
漢字では「褻」、意味としては日常のこと。
古語では普段着を褻着(けぎ)、日常食を褻稲(けしね)などと呼んでいました。
日常=ニュートラルな状態で黒でも白でもない様態です。
「ハレ」とは
「晴れ着」「晴れ舞台」或いはエネルギーが活性化した「張れ」の状態でもある。
例えば「祭り」は代表的なハレの日で、エネルギーが活性化し発散する非日常
の日であり、日頃まもっているルールや規範を少々破っても許されるものです。
日本各地にある「ケンカ祭」や「ハダカ祭」等、そういう祭りでエネルギーを発散
させたら、また「ケ」日常に戻ります。
「ケガレ」とは
「穢れ」。諸説あるが、「気枯れ」(気が枯れる)が元々の意味と言われている。
エネルギーが枯渇している状態です。或いは「毛枯れ」「毛離れ」
(この場合、二毛作等でも言われるように「毛」とは農作物のこと)。
代表的な「ケガレ」には黒いケガレと赤いケガレがあり、黒は「死」に関する
ケガレ、赤は「血」に関するケガレです。この部分に関わった人は「穢れ」状態
がしばらく続くこととなり、一定期間は自粛生活を送る。
でも、また「ケ」に戻ります。
「ハレ」、「ケガレ」共に「ケ」の日常に対して非日常を表し、「ハレ」は聖の非日常。
「ケガレ」は負の非日常を表しています。
こうやって常にニュートラル状態に還るのが、日本の宗教文化のベクトル
となっており、すべてが一時的な状態なのだといえます。
昔の人にくらべ、都市生活は毎日ハレの状態みたいなもので、
還るべき日常が曖昧になっています。その曖昧な状態に一線を引くために
宗教儀礼が必要で、都市生活において占いや風水のニーズが高まるのは
生の営みに線引きするためなのかもしれません。或いは選択肢が多すぎて
自由であるが故の苦しみがうまれ、自分自身になんらかの縛りを
必要としているのかもしれない。
ハレの常態化に関しては社会学では「カーニヴァル化」と言われ、現代の特に
都市の若者の熱狂のありかたを説明するのにこの言葉が使われます。
三浦展(みうらあつし)さんの著書「下流社会」では、現代の階層下部を形成する
団塊ジュニアの特徴として、下流化志向があり、その特徴の一つとして
「カーニヴァル化」が挙げられています。
彼らの多くの日常生活はおおむね退屈で、特に生産性もなく、
単純で低賃金の労働に就き、高いスキルや知識を求められない、
個性的でも創造的でもない仕事に就いている。そういう若者達は日々の
生活の退屈さを、定期的にカーニヴァル的なもの、祝祭的な儀式、
たとえばサッカーのワールドカップ等の観戦で解消しているという(三浦展説)。
彼らが好きなものとして三浦さんは「5P」を挙げています。
パソコン、ペインジャー(携帯電話)、プレステ、ペットボトル、ポテチ。
つまりパソコンの前に座ってネットやゲームをしながらペットボトル飲料を
飲み、ポテチを食べている人・・・というのが、現代の下流の人たち
だということだそうです。
ネットの為の初期投資がどんどん安くなっている現在、ネットで遊んでいるのが
一番お金がかからない。それが、「引きこもり」状態をより容易にしている。
この若いネットピープルたちが好む娯楽は、ロックコンサート鑑賞と
スポーツ観戦なのだそうです。年収が下がるほど、スポーツ観戦とロックフェスに
惹きつけられる。
(イギリスでもサッカーを支持し支えるのは中流階級以下の人たちで、
上流階級の人は主にクリケットや競馬(日本の競馬イメージとは違います)
です)*自分調べ(笑)
しかし、こういうものは広告代理店が仕切っているイベントで、
そういう管理化された擬似イベントに何十万人という人たちが集められて、
代理店とテレビ局に仕切られた「祝祭」によって「ガス抜き」をしてもらい、
また一人の密室に戻っていくという、あまり心温まる風景ではありませんよね?
管理された擬似祝祭的イベントに若者が集まるということは。
「ネット右翼」というものもこの社会集団を母体としていて、
PCの前で排外主義的で暴力的な言辞を吐き散らしている若者のことで、
政治意識に関しても三浦さん調べではいわゆる「上流」における自民党の
支持率は8.3%で、民主党が16%、支持政党なしが75%(2005年後期)。
ところが「下流」層では自民党支持者が圧倒的に多い。よく見るテレビ局は
フジテレビ、フジと自民党が好きでネットから情報を得て、時々
サッカー観戦等でフェイスペインティングをして日章旗を振っている。
「ハレ」が常態化すると刺激の閾値がどんどん上がり、
以前は5万人で盛り上がっていたコンサートが慣れるうちに10万人20万人
となっていく。そんな風に刺激の閾値を上げていく以外にこの手の
擬似イベント的祝祭は「ハレ」としての人類学的機能を果たし得ないわけです。
だから最終的には「戦争だ!」というレベルにいくしかなくなる。
(2013年現在まったくもってそういう流れになってしまっています)
*自分認識です。
憲法改正法案を強く推しているのは70、80歳のグループと非常に若い
議員です。若い議員達は彼らを押し上げていた年の有権者、特に若い
世代の傾向をかなり正直に映し出していると思います。政治家までもが、
社会全体が興奮するようなイベントをしかけなければならない。
「ハレの常態化」が政治的に危険な方向に向かって行くことに懸念している。
現代霊性論 [単行本(ソフトカバー)
内田 樹 (著), 釈 徹宗 (著)
内田 樹 (著), 釈 徹宗 (著)
という訳で、「名前は呪い?」「靖国問題で考える政治と宗教」、
「宗教とタブー」等非常に面白い一冊です。お勧めです。
まぁ内田先生の本は大抵面白いのですが(笑)
2005年での講義ということもあり、たぶんに現在を先見している
視野と考察に富んでいて色々考えさせられて楽しめます!
では!
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